アフリカのシンガポール「ルワンダ🇷🇼」
ウガンダのエンテベから飛行機で1時間程度、次はルワンダのキガリに来ました。
第一印象は、今回回ったケニア、タンザニア、ウガンダどこの国よりも雰囲気的に安全で、道路が綺麗で、秩序が保たれている感じがします。
アフリカのシンガポールとも言われることがあるここルワンダ。しかし1994年には、ジェノサイド(大量殺戮)があり、約80万人の人が虐殺された歴史があります。
そこからアフリカの奇跡とも呼ばれる復興を遂げ、現在でも高い経済成長率を維持しています。
今回はそのルワンダのジェノサイド(大量殺戮)について、歴史を少しまとめようと思います。
文字だらけでおそらくあんまり面白くないかもしれませんが、自分の頭の整理がてら紹介します。いくつか動画や本を見ましたが、多少の間違いはご了承ください。
日本人は日本人
生物学的な分類など専門的な話はあまり詳しくないですが、基本的に、日本に住んでいるのは日本人で、琉球やアイヌもあるけど大和民族、日本民族、和人などと呼ばれたりします。
僕たちの普段の認識では、日本人はみんな日本語を話して、方言はあれど北海道と沖縄の人はそう難なく話せるという認識だと思います。
言葉や外見、文化を含めたものが日本人としてのつながりというのか、アイデンティティです。
民族も言葉も違うけど同じ国の国民
僕たち日本人からしたら、あまり考えられませんが、例えばフィリピンでは一つの国に180種を超える言語が存在し、
キリマンジャロであったスイス人に聞いたところ、スイスではドイツに近い場所ではドイツ語、フランスに近い場所ではフランス語、イタリアに近い地域ではイタリア語、他にロマンシュ語。
そんなことが世界では普通にあります。
同じ国にいるのに、見た目も違ったり、言葉が通じないことがあるんです。
もちろん、民族や言葉の違いを乗り越えて一つの国として平和にまとまっている国もありますが(例えばシンガポールはマレー系、中国系、インド系など)、
アフリカの一部の国では、いまだに民族の違いで揉めていたり、内戦など政情が落ち着かないこともあります。
加えて、帝国主義時代、植民地時代もいまのアフリカの現状に大きく影響しています。
わかりやすく解説しようと思うので、少しでもためになれば幸いです。
ルワンダでのジェノサイド(大量殺戮)の歴史概要
ルワンダは東アフリカにある内陸国です。
この国で1994年にジェノサイド(集団殺戮)があり、約100日間で約80-100万人の人が殺されたと言われています。
なぜこのようなことが起きたか、簡単に、順を追っていきます。
ルワンダ内戦前
第18代目の王様、ルワブギリの時代に大体今の国土と同じよう範囲になったそうです。
ルワンダには主に
少数派の遊牧民ツチ族
多数派の農耕民族フツ族
がいました。今回の主人公です。
王朝の要人はツチ族が占める決まりになっていました。なぜなら、ルワンダはのちに「千の丘を持つ国」と呼ばれるほど起伏が多く、(街並みも凸凹)
以前から農耕に適した土地が少なかったため、
ツチ族の方が経済的に優位に立っていたため自然と支配層になったそうです。
この頃は明確な対立関係はなく、ツチ族の王はフツ族からの尊敬も得ており、圧制を敷くこともなく、異民族同士の結婚も許され、混ざり合って生活していたそうです。
帝国主義の時代
19世紀の終わり頃、ヨーロッパの列強が未開拓地であるアフリカに触手を伸ばし始めました。
1894年-1895年にかけて、ベルリン会議でアフリカ分割に関して話し合われました。
そこではアフリカの人はおらず、民族や文化、そこに住む人を無視して画定しました。
アフリカの国境がいまもまっすぐな部分が多いのは、
その頃にまるでケーキを切り分けるように好き勝手分割した名残です。
(ベルリン会議の風刺画)
現在のルワンダは、初めはドイツ領🇩🇪、ドイツが第一次世界大戦で負けた次はベルギー領🇧🇪となりました。
どちらも住民を民族区分によって分断し、少数派のツチ族に多数派のフツ族(+極少数のトゥワ族)を支配させ、
そのツチ族を宗主国が支配するという二重支配を試みました。
分割統治
このように支配者が、民族・宗教・利害などの相違を利用して、統一的な反対勢力の形成を困難にして支配の安定をはかる方法を分割統治と言います。
つまり、民族同士を仲違いさせ、自分たちへの不満の目を逸らせたり、まとまる事を防ぐ事をしたのです。
ベルギー🇧🇪は次のような学説を流布しました。
- 元々トゥワ族がおり、7世紀ごろからフツ族が移住、15世紀ごろから白人の血を引くツチ族が来た。
- 白人の血を引くツチ族は支配するに相応しい優等民族だ。
- ツチ族によって文明的な発展ができたのであり、ツチ族の優越性は自然の摂理に基づく
というような人種差別を正当化するような思想を植え込みました。
身分証の発行
その後、ベルギーは1933-34年にかけて人口調査を行い、(85%のフツ族、14%のツチ族、1%のトゥワ族だったそう)、人種を明記した身分証明証を発行した。
だが実際は、混血が進んだ地域では見分けがつかなかったり、自分の家計を知らないものも多かった。家畜の所有の有無、農業に従事しているから等の安易な区分法が多用された。
この分割統治による人為的な民族分断は、1994年のジェノサイドの大きな要因となった。
フツ族の鬱憤
ツチ族が優遇されている状況をよく思わないフツ族はその学説を逆手に取り、元々住んでいたのはフツ族であり、我々こそがルワンダの正当な国民であるという思想を広め始めた。
1957年3月 フツ宣言
フツ族の知識人たちは、「フツ宣言」という小冊子を発行し、民主主義社会を築く事を提言。国民の85%、大多数を占めるフツ族が国の実権を握ることができると考える。
その政治活動は国内の政情を急速に悪化させ、ルワンダ全土でフツ族とツチ族の衝突事件が多発した。
ベルギー🇧🇪の取った行動、ルワンダ共和国独立
予想外の事態に驚いたベルギーは軍隊を派遣したものの、以前優遇していたツチ族ではなく、「多数派のフツ族を宥めるため、フツ族勢力の権力奪取を容認する」という解決策をとった。
そのため、劣勢に立たされたツチ族の有力者たちは周辺国に逃れた。
その後1960年の選挙では、フツ族の政党「フツ解放運動党」が圧勝し、フツ宣言の執筆者の1人が暫定首相に就任した。
1962年には独立が承認され、国連委任統治領からルワンダ共和国が誕生した。
独立後
しかし、ルワンダ共和国として独立した後も、両民族間の衝突は解消されなかった。
ベルギー🇧🇪の統治機構がアフリカから去った後も、初代大統領のカイバンダは国外逃亡したツチ族の旧支配層に恨みを持ち、国内に残るツチ族にも人種差別の裏返しとも言える冷遇措置をとった。
一方、避難していたツチ族の旧支配層は、同じツチ族の難民を雇い入れて武装民兵を結成し、将来的な政権奪還を狙い、越境攻撃を繰り返していた。
1963年には数百人規模のツチ族民兵が首都キガリの14kmほど進出して脅かすという事件も起きたが、結局ルワンダ正規軍によって撃退された。
これにより、政府はツチ族の大規模な弾圧を開始し、1964年初頭にかけて数万人のツチ族が死に追いやられ、約25万人が国外への脱出を余儀なくされた。
フツ族のハビャリマナ
この事件をきっかけに、ツチ族に対する敵意を公然と表明するフツ族強硬派が各地で示威行動を繰り広げるようになった。
弾圧を指揮した、当時の治安担当責任者ハビャリマナは露骨やさな弾圧政策はいずれ国際社会からの批判を産むと読み、より洗練された形での「フツ族による統治構造」を築く構想を練り始めた。
1973年にはハビャリマナは大統領に就任し、ツチ族への攻撃を控えるようフツ族強硬派に指示したり、支持政党である「開発国民革命運動」にツチ族への参加も認めたりして国内外にアピールしたものの、
実際はツチ族に対する社会的差別は巧妙に偽装されただけで、決して解消はされなかった。
政府軍にはフツ族のみ入隊が許され、将兵がツチ族と結婚することも禁じられた。
ただ、ツチ族のなかには、フツ族の組織的な暴行という脅威が取り除かれただけでも、現状に妥協する意見も一定数あった。
1980年代
再び権力による対立構造の利用
しかし1980年代に入ると、その表面的な宥和政策も綻びを見せ始め、加えて1987年には主要産物であるコーヒーの価格も暴落し、貧富の差が拡大。
ハビャリマナは再度植民地時代に植え付けられたフツ族vsツチ族の対立構造を政治的に利用しようと考えた。
よくありがちな、支配権力による国家予算や海外援助の横領で私服を肥やす大統領や特権階級を「小さな家(アカズ)」と呼び、横暴と腐敗に対する国民の怒りは募っていった。
その際、ハビャリマナとその妻はフツ族の共通の敵であるツチ族への敵意を煽り、越境してくる亡命ツチ族を「イニェンツィ(ゴキブリ)」と呼んだ。
ルワンダ愛国戦線(RPF) ツチ族側と内戦勃発
ウガンダに亡命していたツチ族たちはルワンダ愛国戦線(RPF)という政治組織を結成し、1990年にはハビャリマナ政権に宣戦布告し、ルワンダ紛争(内戦)に陥った。
ハビャリマナはツチ族のルワンダ愛国戦線を「ツチ族のゴキブリ集団」と断定した上で、数万人に及ぶルワンダ国内のツチ族を侵略勢力の同調者という名目で逮捕・拘束した。
実際にはRPFには、腐敗政治に反旗を翻したフツ族も大勢加わっていたが、ハビャリマナは事実を歪めて「ルワンダのフツ族」vs「侵略者と彼らに味方する売国的なツチ族」という図式に当てはめ、
フツ族の村民には「国家の義務」としてツチ族の村を襲うことが奨励された。
1990年モーセの十戒ならぬ「フツの十戒」
1990年12月、フツ族強硬派の新聞カングラに、フツ族が実践すべき行為をモーセの十戒になぞらえて掲載した。
その内容は
- ツチ族の女は不誠実であるから、決して交際も結婚もしないこと。
- ツチ族は不正直であるから、経済活動で協力しないこと。
- 政治・経済・軍事・教育などの国家的要職は、フツ族のみで占めること。
- フツ族は、ツチ族に対する憐憫の情を捨てること。
- フツ族は、フツ族同士で連帯・団結し、社会革命のイデオロギー流布に努めること」
などである。この「フツの十戒」は、フツ族にとっては疑うことの許されない「教義」となり、とりわけ不満の捌け口を求めていた無職の若者の間では熱狂的に受け入れられた。
インテラハムウェ
「小さな家」の幹部は、これらの若者を集めてフツ族至上主義を掲げる武装集団「インテラハムウェ」を結成し、ツチ族への襲撃を繰り返された。
手にはマチェーテなどの武器持った若者たちは、政府によって許可された暴力行為を勢力的に実施し、殺戮されるツチ族の死者数は全土で増加の一途をたどった。
さすがにハビャリマナ大統領は欧米諸国からの批判を恐れて複数政党制を導入するなどしたが、単なる独裁体制を隠すためのカモフラージュでしかなかった。
1993年8月4日、タンザニアのアルーシャでルワンダ政府とRPFによる和平合意が締結されルワンダ内戦はひとまず終結したが、もはや国内で燃える憎しみは制御不能な域に達していた。
千の丘自由ラジオ(RTLM)
アルーシャでの和平合意の4日後、千の丘自由ラジオという放送局が開局して若者向けのラジオ放送を開始したが、まもなくDJの口からツチ族に対する敵意を煽る言葉が発せられるようになった。
「土族の連中に油断するな、情けは無用だ。フツ族の若者よ武器を準備せよ。祖国からゴキブリを一掃する日に備えよ」
1994年4月6日 ハビャリマナ大統領を乗せた飛行機がロケット砲により撃墜
1994年4月6日にハビャリマナ大統領の乗る飛行機が何者かにより撃ち落とされ、同情していた側近数人と共に死亡する事件が発生。
これがルワンダを血で染める新たな悲劇の幕開けとなった。
ジェノサイド(大量殺戮)の実行
その事件の知らせがルワンダ国内を駆け回ると、暫定大統領とフツ族強硬派は「間違えなくツチ族の仕業だ」と断定し、ラジオ放送などを通じて武装した若者に報復を行うよう呼びかけた。
フツ族強硬派とそれに従う若者はあらかじめフツ族の住む家と家族構成を調べており、組織的にツチ族の人々を家の外に引きづりだし次々と殺していった。
アルーシャ合意の履行を促すために国連から派遣されていた平和維持軍「国連ルワンダ支援団(UNAMIR)」に所属するベルギーの小部隊が展開していたが、フツ族穏健派の首相官邸を警備していたベルギー兵10人は首相もろとも惨殺された。
夜が明けると数で上回るフツ族によるツチ族の大量殺戮がルワンダ全土で繰り広げられた。
フツ族強硬派はあらゆる手段を用いて敵意を煽り、少しでもツチ族に同情的なそぶりを見せるフツ族の人間をも「裏切り者」の烙印を押してマチェーテやマスを振り下ろした。
殺される側に立つ事を恐れたフツ族の人々は、隣人として、あるいは家族や親戚として共に暮らしてきてたツチ族を自らの手で殺すか、その手伝いをさせられた。
こうして大統領の死亡から約100日の間に、80万とも100万とも言われるツチ族のルワンダ人が残虐な方法で殺害された。
時に逆手に働く宗教
この頃のルワンダはアフリカ大陸でも有数のキリスト教国だったものの、教会は大量殺戮を防ぐ上で何ら機能しなかった。
それどころか、司教や神父が先頭になってツチ族虐殺を指導することも珍しくなかったとのこと。
虐殺が開始してからの5月15日、大聖堂で「マリア様が現れた」との噂が広まり、ハビャリマナ大統領は天国で聖母の傍にいるとの預言者の言葉がフツ族強硬派のラジオ放送を通じて全国に伝えられた。
これを聞いたフツ族聖職者は、ツチ族の抹殺は神の御意志だと解釈して自らの役割と思いそれを果たそうとした。
中にはツチ族を匿ったり(映画ホテルルワンダなど)、国外逃亡を手助けする者もいたが、その割合は決して高くなかった。
見て見ぬふりの欧米諸国
UNAMIRの指揮官としてキガリにいたカナダ軍のロメオ・ダラーラ少将は1994年1月の段階(ジェノサイドの3ヶ月前)で、大量殺戮の可能性を危惧する内容のFAXを送信し、国連に平和維持軍の増強や過激派の武器の押収を提案するが、UNAMIRには権限がないという理由で不許可となっていた。
国連ではナチスドイツによるホロコーストを許したことへの反省から、ジェノサイド条約を1948年12月9日に決議しています。
まさしくこれはフツ族によるツチ族へのジェノサイドでしたが、アメリカやフランスという大国が関心を示さなかったため、介入を遅延させました。
特にこれといった資源や、利害関係がなかったからですかね?
映画 ブラックホークダウン
僕は戦争映画をよく見ますが、なかでもよく出来ている「ブラックホークダウン」という映画を何回か見ています。
これはソマリア内戦における、1993年10月3日のモガディシュの戦闘を元にした映画なのですが、30分で終わると言われていた作戦中にアメリカ軍のヘリ「ブラックホーク」が2機とも撃ち落とされて15時間に及ぶ非常に激しい陸上戦によりアメリカ兵19人が死亡、遺体を引きづり回される光景が放映されるという実話に基づいたするという話で、のちにソマリア内戦介入からアメリカが撤退するきっかけとなった戦闘です。
何が言いたいかというと、ちょうどジェノサイドから約半年前、ソマリア内戦介入により犠牲者を出したアメリカは、派兵を即刻中止すべきという世論によりソマリアからの撤退を表明し、1994年3月25日に撤兵を完了したばかりだった。
その為、アメリカ政府はジェノサイドという言葉を一切使わない方針をとり続け、(ジェノサイドを認めるとジェノサイド条約に基づき阻止行動する義務が生じる為)、国連決議にもその言葉も割り込むことさえ妨害したと本には書かれています。
ようやくフランスが動くも、時すでに遅し
1994年6月21日に平和維持部隊をルワンダに派遣する用意があるとの内容を記した書簡を国連事務総長宛に送付し、翌日に多国籍軍派遣を決定する決議929を採択し、フランスとセネガルの合同軍約2400人が第一陣としてキガリに到着したが(ターコイズ作戦)、すでにフツ族強硬派が自らの仕事をほぼ終えた後だった。
その後のルワンダ
結局のところ、その後ルワンダを救ったのは、ルワンダ出身の亡命者たちであり、ツチ族が惨殺されているのを見たルワンダ愛国戦線(RPF)が即座にルワンダ領内に攻撃を再開した。
元々兵員数は1994年4月下旬の段階では2万人程度だったが、フツ族・ツチ族問わず大勢の民間人が支援に回り、ルワンダの秩序回復を目指す軍事行動に加わった。
1994年7月4日にRPFは首都キガリを占領し、劣勢に立たされたフツ族強硬派はコンゴなどに逃亡。RPFの主導でルワンダ新政府が樹立された
その後の政権では身分証を含む公文書で民族名の記入を廃止した。
何が良くて何がダメ?
このように元々それなりに仲良く暮らしていた地域に、西洋諸国などの帝国主義(もちろん日本も)に翻弄され、今でも揉めている地域がまだあります。
アフリカというと、どうも日本から遠い国で起きているよくわからない、自分には関係ないことと思いがちですが、おんなじ地球のどこかで起きていることについて、1日5分でも考えてみること、誰かと共有すること、どうすればいいか考えること、それが大切だと思います。
ガザとイスラエル、ウクライナとロシア、シリア内戦、IS、朝鮮戦争、中国と台湾、難民問題などなど、世界にはまだまだ解決できていない問題がたくさんあります。
悪かったのはドイツか、ベルギーか、国連か、フツ族か、ツチ族か。
答えは出ませんが、過去にあったことから学ぶことはたくさんあるなと思います。
結構長くなってしまいましたが、そんな過去が信じられないくらいルワンダは良いところです。
参考にした文献はこちらです。
ごちゃつくのが嫌だったのですが、調べられるように人の名前や部隊の名前も書いたりしました。もしよければ参考までに。
ルワンダの後はまたタイ、インドネシアに行きます。多分ブログは書かないかな?
ではまたどこかで。
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2024/6月現在 山梨にいます。たまに東京、長野
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