なるほど分かる、パレスチナ問題



ディアスポラののち、ユダヤ人は世界中に広がっていき、文化的、経済的に活躍している話をしました。

エルサレムはというと、その後はローマ帝国が支配していたが、638年にはイスラム勢力がこの地の支配者となる。

この時の二代目正統カリフであるウマルは、啓典の民であるキリスト教やユダヤ教に対して寛容な態度で臨んだとされている。

この時代のイスラム諸国ではユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も平和に生活ができていた。

ちなみに、この時代にムハンマドが天馬に乗って昇天したとされる岩の上に岩のドームが作られた。

(ユダヤ神殿の丘の上にある岩のドーム)

エルサレムは638年以降、イスラム教の支配下に入っていたが

11世紀になると、ローマ法王がイスラム勢力からの聖地奪還という大義名分の目的のもと、十字軍を結成。


1096年から始まり、エルサレムを攻撃した時には約4万人もの市民を殺したとされている。

その時のキリスト教徒は異教徒の殺害を「浄化」と称した。

この時代に異教徒のユダヤ人は汚れているから浄化しようという「反ユダヤ主義」がヨーロッパで定着してしまう。
これが前の記事のユダヤ教の項にも出て来た話題。

大元は同じ神様なんですけどね。

十字軍は一時的にエルサレムを奪還し、テンプル騎士団などが巡礼者の保護などをしたが、イスラム勢力はこれに対して「ジハード(聖戦)」を宣言し、再びエルサレムの支配者となった。

その後は16世紀ごろからはオスマン帝国の支配下に入ったエルサレム。

この時代は、それぞれ信仰の違いでの争いはなく、互いに認め合いながら平和に暮らしていた。

しかし、世界中に離散したユダヤ人は世界中での嫌われ者であり続けた。

フランス革命
時代は少し飛び、1789年にはフランス革命が起きる。

フランスに住むユダヤ人達は、信仰にかぎらず平等に市民権が与えられた。

しかし、フランス軍のドレフュス大尉がスパイ容疑の冤罪をかけられ階位剥奪、島流しにあう事件が起きる。(ドレフュス事件)


この事件ののち、ドレフュス大尉はユダヤ系であり、軍の反ユダヤ主義の連中がでっち上げた事件であることが分かる。

シオニズム

結局、このような事件をきっかけに、ユダヤ人達は「自分達の国を作ろう!」という運動を始める(シオニズム)

そのような運動をしている人たちをシオニストといい、旧約聖書の時代、神に与えられた地であるパレスチナに入植を始める。

20世紀になるとシオニスト達は組織的に入植を始め、ユダヤ系財閥のロスチャイルド家などの手助けもあり入植を加速させた。

第一次世界大戦

この時のイギリスの「三枚舌外交」が現パレスチナ問題の大きな原因の1つである。

アラブ人とは
「アラブ人を率いてオスマン帝国で反乱を起こせば、フセインを王としてアラブ王国を独立させよう」(フセイン-マクマホン書簡:1915年)と約束した。

また、ロスチャイルドなどの支援を得るために、ユダヤ人とは
「戦費を賄ってくれるなら、パレスチナにユダヤ民族のホームランドの建設を認めよう」と約束した。(バルフォア宣言:1917年)

さらには、、フランスとの間で
「大戦後はオスマン帝国の領地をイギリス、フランス、ロシアで山分けにしよう」という密約を交わす。(サイクス・ピコ協定:1916年)


つまり、この地は誰との約束を守り、誰のものなのか?という問題が生まれた。
せっかく平和に暮らしていたのに。

その後はイギリスとフランスはアラブを細切れにして統治を開始する。

エルサレムはイギリスの統治下に置かれる。
イギリスの利権をアラブ人から守るために、パレスチナにらユダヤ人の無制限移民を認めりした。

矛盾する3つの密約を交わしたイギリスの三枚舌外交はもちろん同時に実行することが不可能であり、第二次世界大戦後にイギリスはこの問題を国連に委託した。

第二次世界大戦

第一次世界大戦で敗戦したドイツはベルサイユ条約で不利な要項を押し付けられ苦しんだ。

ヒトラーはドイツの混乱のすべての原因を、ベルサイユ条約とユダヤ人のせいだとした。

共産主義を発明したカール・マルクスはユダヤ系であり、それも相まって極右政権はユダヤ人に対する隔離・迫害をさらに強めた。
そしてホロコーストでユダヤ人600万人が殺された。


イスラエル建国
ユダヤ資本の手を借りつつ少しずつ入植を続け、ついに、ユダヤ人はパレスチナの地に自分達の国である「イスラエル」を建国することとなった。

そこにはもちろんアラブ人が住んでいたので、当然揉めることになる。

アメリカのシオニストグループは、パレスチナに違法に移民を送る工作を仕掛けたり、アメリカ政府にイスラエルを支持するように圧力をかけた。

そして1948年5月15日、アラブ人とユダヤ人の揉め事に手を追えなくなったイギリスはこの問題を国連に投げ出す。

国連はパレスチナとユダヤ国家とアラブ国家、エルサレムを国際管理地域の3つに分ける案を出し、賛成33、反対13、棄権10で可決した。

その頃パレスチナには197万人が住んでいた。そのうちユダヤ人は60万人と少数派であったがパレスチナの56.5%をユダヤ人の国とする案を可決。

この不平等すぎる法案の可決には各国の思惑があったと言われている。

同時に、全パレスチナの6%ほどの土地しかないよそ者に、国の半分以上を与える案にはアラブ人は拒否した。

1948年、イギリス軍がパレスチナから撤退する1日前、イスラエルは独立を宣言。


中東戦争
待ってましたと言わんばかりにアメリカとロシアはイスラエルの建国を承認。

そして、イスラエル建国の翌日の5月15日、イギリス軍がパレスチナから撤退すると同時にシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトが雪崩を打ってイスラエルに攻め込んだ。

これが第1次中東戦争である。

つまり、アラブ人を守るためにご近所さんをも巻き込んでの戦争が始まった。

イスラエルは負けそうになるも、4週間の停戦協定の間にアメリカの支援や世界中にいるユダヤ人が義勇兵として参戦し、結果的にはイスラエルの勝利となる。

この戦争に勝ったイスラエルは、国連の分譲案よりさらに広い領地を勝ち取った。

(真ん中)

この時に元いた地を奪われたパレスチナ人はパレスチナ難民と呼ばれ、当時100万人のパレスチナ人がヨルダン川西岸やガザ地区に逃げ出した。

何百年もの間、世界中に離散し差別され苦しんできたユダヤ人であったが、今度はパレスチナにいたアラブ人にディアスポラを強要したことになる。

その後は4回も中東戦争は起こる。

1967年6月5日に始まった第三次中東戦争ではイスラエルは圧勝を収め、たった6日間でエジプトのシナイ半島全域を支配下に置いた。(図の右)

PLO(パレスチナ解放機構)
第三次中東戦争ののち、パレスチナ人は自分達の手でパレスチナ国家を建国しようとまとまり、PLOという組織を作り、テロやゲリラ活動を行なった。

PLOはヨルダンをゲリラの基地にしようと52のゲリラ組織がヨルダンに集まってきた。
ヨルダンはPLOに宣戦布告し、負けたPLOはレバノンに逃げた。

また、この組織に頼まれて、『日本赤軍』が起こした有名な事件がある。

『テルアビブ空港乱射事件』

3人の『日本赤軍』メンバー(うち2人は大学生)がテルアビブの空港で自動小銃を乱射、手榴弾を投げて約100人の死傷者を出した。


加えてPLOはミュウヘンオリンピックを襲いイスラエル選手11人を殺した。

PLOは1968-88年の間に565件も国際テロを行なっている。

このような活動は、世界の目を中東に向けさせた。

しかし、イスラエルも黙ってはいず、レバノンにいるPLOを倒すという口実のもとレバノンに攻め込んだ。

負けたPLOはチュニジアに逃げた。
また、レバノンに残ったゲリラはキリスト教の指導者を殺したりした。

第四次中東戦争
 ナセルに代わってエジプトの大統領となったサダトは、シナイ半島などの奪還をめざし、軍備増強を密かに進めた。

サダトは親米路線に転じ、アメリカの助けでシナイ半島を取り戻しイスラエルとの和平を実現しようとした。

が、イスラエルはこれを拒否。

サダトはサウジアラビアを訪れ、石油を武器に欧米に圧力をかける「石油戦略」を展開。

日本はこのことをきっかけに第1次オイルショックに陥る。

 1973年10月6日、エジプト軍はシナイ半島で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始する。

エジプト軍はソ連製対戦車ミサイルでイスラエル戦車部隊を撃退した。

初めはエジプト軍が優勢であったが、後半はアメリカの支援もありイスラエルは戦局を逆転しかけた。


そこでサダトはかつてからの狙いであった和平計画に従い、停戦協定を含む全ての戦後処理をアメリカに一任。

この戦争によってアラブとイスラエルの間には対等交渉の希望が生まれた。

サダトは電撃的にエルサレムを訪問し、イスラエル国会で演説。アルアクサモスクで礼拝も行なった。

キャンプデービッド合意
この後、米大統領になったカーターがイスラエルとエジプトの仲介をした。

エジプトは、イスラエルを国として認める。その代わりにイスラエルはシナイ半島を返還し、パレスチナ人に自治権を認める。

といった内容。

この2人はノーベル平和賞を受賞。

しかし、サダトはシナイ半島のためにパレスチナを売り渡し、イスラエルと手を組んだと思われ、1981年の10月6日、イスラム過激派に暗殺されてしまった。

インティファーダ(民衆蜂起)

1970-80年代、アメリカはソ連を封じ込める防衛ラインとしてトルコ、イラン、パキスタンを支援していた。

イランのパーレビ王朝はCIAによって作られた政権であり、石油の儲けで武器を買い軍事国家になっていた。


このアメリカによる急速な欧米化や秘密警察による恐怖政治に国民の不満が爆発し、イラン・イスラム革命が起きパーレビ王朝は倒される。(1979年)

この時期が日本の第2次オイルショックにあたる。

この革命を指揮したのがアヤトラ・ホメイニーである。彼はアメリカを大悪魔と呼んだ。

イランと国交を断絶したアメリカはイスラム革命が他の国に広がらぬようイラクに注目した。

そして、当時イラク首相であったサダムフセインはアメリカの支援を受けイランを攻撃。これがイラン・イラク戦争の始まりである。

アメリカの支援を受けたイラクは、アメリカの望み通りイランの反米イスラム改革が広がるのを阻止した。


その頃、ロシアは共産主義的な政権であったアフガニスタンで起きていた反乱に軍事介入。

アメリカはアフガン戦争で反ソ連・ゲリラを支援して戦闘訓練を実施し武器も与えた。
その中には、オサマビンラディンなどもおり、その後、オサマビンラディンはテログループ「アルカイダ」を作った。

アラブゲリラであろうが、サダムフセインであろうが、アメリカは敵対している国と戦う国には見境なく支援する。

しかし、その武器で今度はイラクはアメリカを相手にする。そんなアメリカやソ連の介入に踊らされている中東情勢であった。

イラン・イラク戦争

そんな中のイスラエル。
1987年12月8日、イスラエル軍のトラックがガザで事故を起こしパレスチナ人四人が死亡。

それに怒ったパレスチナの18歳の少年がイスラエル軍に石を投げた。
イスラエル軍は石を投げたという理由だけでその少年に発砲して射殺してしまう。

この事件をきっかけに、イスラエルの占領に対する抗議活動:インティファーダが広がっていった。

石を投げたというだけで丸腰の子供や青年がイスラエル兵にガンガン殴られる映像が世界中に流され、パレスチナ社会は世界から同情を持って受け入れられた。

PLOはこれを好機と見て、アラフォトが国連でイスラエルの生存を認め、テロ行為を放棄すると公式に宣言した。

湾岸戦争
1990年8月2日、イラク軍はクウェートに侵攻して占領。
イランの反イスラム革命がアラブ諸国に広がるのを止めた貸しがあったため、クウェートを占領しても世界は目を瞑るとフセインは踏んでいた。

しかし、それを放っておくとイラクはサウジアラビアや他の石油産油国を狙うかもしれないと思われ、アメリカをはじめ世界が国連決議で反対した。

サダムフセインは、パレスチナを20年以上占領し続けるイスラエルに何の制裁も加えず、クウェート占領を非難するのは不公平。イスラエルが占領地から撤退すれば、イラクもクウェートから撤退する。との旨を発言。

この発言を聞いたパレスチナ人たちは、フセインこそ自分たちを救い出す英雄と思い、アラフォトもPLOもフセインを支持した。

これにより、投石事件をきっかけに世界の同情を得たPLOは、アラブ諸国や国連世論の反感を買い、経済的支援がなくなってしまった。

イラクはこの際イスラエルにもミサイルを撃ち込んだが、イスラエルが反撃するとたちまち「アラブvsイスラエル」になってしまうため、反撃しなかった。

オスロ合意
1991年、イラクとの湾岸戦争に勝利したアメリカは、パレスチナ問題の解決に乗り出す。

ノルウェーのオスロにて、イスラエルとPLOの秘密和平交渉がもたれ、合意に達した。(1993年)

ラビン首相(イスラエル)とアラフォトPLO議長、仲介するクリントン

アメリカは中東における「パックスアメリカーナ(アメリカ一国が支配する平和)」を進めたのだ。

オスロ合意の内容は
PLOがイスラエルの生存権を認め、テロをやめる。ガザとエリコで2年後から「難民帰還の問題」「エルサレムの帰属」「入植地の処理」などの話し合いを進めるといったもの。
そして1994年にはアラフォトがガザ地区に帰ってきて7万人のパレスチナ人は大喜びした。

しかし、アラフォトによる独裁はうまくパレスチナをまとめられなかった。


第2次インティファーダ

1999年、和平推進派のバラクがイスラエルの首相となったものの、和平交渉は暗礁に乗り上げ一時中断。

そんな中で2000年9月28日、イスラエルのシャロンは護衛の警官1000人とともにエルサレムの「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」に登った。

ここにはアルアクサ・モスクと岩のドームがあり、イスラーム教徒にとっては聖地である。多くの反対の声を無視した、明らかな挑発行為となった。

それにより、翌29日に2万人のイスラーム教徒が抗議行動を開始し、「嘆きの壁」に祈祷に来ていたユダヤ教徒に投石。

この民衆蜂起は第2泊次インティファーダと呼ばれる。

この運動を指導したのがハマスと呼ばれるイスラーム原理主義を掲げる組織であり、民衆の支持を得て、2006年1月には選挙で圧勝、パレスチナ自治政府の政権の座に就いた。

インディファーダは、アラブ世界の反イスラエル闘争の中心勢力がPLOからハマスに移っていく契機となった。

和平推進派のバラクが占領地の96%を返還すると提案したが、第一次インティファーダで国際世論を味方につけたと味を占めていたアラフォトはこれを拒否。

パレスチナ独立国家樹立の歴史的好機を逃してしまった。


シャロン政権時代
バラクに変わりシャロンは和平に反対。過激派のハマスやイスラム聖戦はイスラエルに対するテロを加速させた。

和平に期待したパレスチナ人は失望し、将来に対する希望も失ってしまった。

そのため、優秀な若者や女子学生まで自爆テロに走るようになった。

テロリストを作るのは貧困ではなく、絶望ということですね。

9.11
ニューヨークの世界貿易センタービルがイスラム過激派がハイジャックした旅客機で自爆攻撃され3000年以上の死者が出た。

ブッシュは「テロに対する戦争」を宣言し、このテロを実行したアルカイダの拠点があり、オサマビンラディンを庇護するアフガニスタンを攻撃する。

イスラエルのシャロンもそれに同調し、「テロに対する戦争」に同調してガザ地区に侵攻。

インティファーダに対する対策が戦争のようになってしまった。

アメリカは、イラクに大量破壊兵器を開発しアルカイダと組んでアメリカを攻撃しようとしているという疑惑をかけ、イラクに対する戦争も開始する。

結局は大量破壊兵器も、アルカイダとの関係を示すものはなかった。

イラクは何万人もの罪のないイラク人が殺され、アメリカやアメリカに追従して戦争した国を憎むイスラム教徒が増えた。

そして、「テロに対する戦争」は、かえって世界中にテロを蔓延させる結果となってしまった。

その後、ロードマップと呼ばれるオスロ合意に似た和平構想もあったが結局は破綻してしまう。

分離壁

イスラエルのシャロンは、テロリストをイスラエルに入り込ませないようにとヨルダン川西岸に4-8mほどの高さがあるコンクリートの壁のつくった。

それも、イスラエルとパレスチナの境界ではなくパレスチナ側に食い込んだところに作った。


この分離壁は現在でも残り、アーティストによる平和を祈るペイントがあちこちで散見される。

この辺で以上。

深くかけば書ききらないので、かなり大まかですがこの辺にしておこうと思います。

これだけの経緯を経ても、未だ今のパレスチナ問題やイスラエルとアラブ諸国との問題は解決していません。

いま現在でも世界中でテロは起き、中東情勢も一向に安定していません。

宗教について勉強し始め、エルサレムについて調べていると、こうして芋づるにいろんなことが出てきます。

これらの問題は宗教、信仰、民族の括り、世界各国の思惑、組織の思いによって左右されており、全てが関わっているということです。

僕はこうして旅をして知識をつけると同時に、世界が平和になって欲しいという思いも捨てません。

その為に私たちにまずできることは、自分の生活だけではなく、世界情勢にも目を向けて平和を考えるということでしょう。

僕は無関心でいられません。
一緒にまずは知識を持ちましょう。関心を持ちましょう。


2017/9/17 イスタンブール

スルタンアフメットジャーミーを横目に

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